年が明けた。すでに2月。あの2020年が終わって、新しい年になった。まだまだ感染者数は多いけれど、年の名が変わるに合わせて、新しい何かが、忌々しくない何かがきっとそのうち始まってくれるに違いない、と、期待している。
思えば去年は駆け足の一年だった。気がついたら師走だった。しかし、その駆け足は、自分で風を切って駆けていたというのではなく、駆け足で動いていく何かに、人々はひきずられて時を移し、日数を重ねていただけのようなものだった。
中国の武漢というところで何か流行っているらしいというニュースを他人事のように一月に聞いた。二月にかけてそれは日本にも押し寄せていたが、まだまだnetやTVで見るものだった。
打って変わって三月四月五月は沈黙の中でじっとしていた。東京の感染者数はすごいことになっているから出掛けるなと言われる。横須賀線は動いてはいたが、「不要不急」な用事では横須賀線に乗るなと言う。六月の北鎌倉駅のホームが明月院への観光客で埋まらず、しんと静かだ。海の家が消えた夏の由比ヶ浜を見るのは生まれて初めてだ。
秋から冬にかけて、第三波がやってきた。何度もやってくる波の下に、馴染みの店が何軒か呑まれて消えていた。そして一年が終わっていた。
ありふれた日々、と言うものが以前はあった。随分と昔のことのような気がする。ありふれた日々。今思うと、悪くなかった。
五月に、多和田葉子著『地球にちりばめられて』(2018年講談社刊)という小説に出合った。
主人公Hirukoは、北欧に留学している間に「東の方にある島国」である祖国が消滅し、帰るところを失ってしまう。仕方なく、北欧の国—スウェーデン、デンマーク、ノルウェイなどで、アルバイトをして暮らしている。独自に開発(発明?)した言語「パンスカ」を操りながら。ある日出演したテレビ番組が縁で若い言語学者の卵と知り合い、一緒に失われた「祖国」の言語を探す旅に出る。旅先で出会う何人かの仲間と共に、旅の地図は広がってゆく。
言葉と人間、アイデンティティとは何か、国とは?民族とは?いろんなことを考えさせてくれる小説。家に閉じこもる日々の中、夏にはすぐにその続編も読んだ。
例年にくらべてずっと人気(ひとけ)の少ない2020年の由比ヶ浜。砂浜に座って海を眺めていると、水平線の向こうに大島が見えた。ぼーっと見ていると、それが「ここから動けない自分」にとって「存在は知っていても手の届かないもの」の象徴のように思えてきた。それはまた、「欧州にいるHiruko」と「戻れない祖国」とどこか繋がるような気もした。
北欧の国から東方の島国に辿り着けないHiruko。そして私にも、今辿り着けないものがある。存在はあっても、「不要不急」である限りそこには移動できない幾つかのものが。例えば東京。例えば北海道。—「場所」ばかりではない。友人との他愛ない話で盛り上がる賑やかなひととき。誘い合っての会食。超満員のホールで聴く交響楽の調べとブラボーの大歓声。図書館で本を選び大きい窓の側で何時間か居座っての読書。
みんな、あの遠い島にあって、手が届かない。見えているけれど、近づいてこない。Hirukoの祖国のように無くなってはいないけれど、それとは比べ物にならない些細なことかもしれないけれど。
コロナがどこかに行ってしまうまで、あなたは動かないで。そのままそのまま!そこに居なさいと言われた。普段無意識に手に入れている楽しみが突然悪者にされ、逆にその価値に気づかされた一年。何か月も首を竦めて潜り抜け、今も首は竦めたままで新しい年の一か月を終えた。
今夢見るのは、仲間と集まってマスクのない顔で大きな口を開けて笑っている自分。こんなことを「夢見る」日が来るとは思ってもみなかったけれど。
2021年が動き始めている。忌々しくない何かがきっとそのうち始まってくれるに違いないと、期待している。
投稿者:はなまき
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