時への洞察、あるいは歳を取る話

コソガイより

はなまきさんは仕事の傍ら、鎌倉で本にかかわる活動を長年されてきました。多彩な趣味をもち、多世代の方と幅広く交流をされており、それを活かしたエッセイをコソガイに寄せてくださいます。今回は時と時計をめぐっての話。ご自身の時計コレクションについて触れているあたり、趣味人が多いこの街の人らしいですね。


世の中に信じてはいけないものはいくつかあるけれど、その一つに、女性たちの会話の中の「私たち、もうトシだから・・・」というせりふがある。

20代の頃、40代のおばさまたちがそんな話をしているのを聞くと、彼女たちは自分達が中年になったことを自覚しているんだなぁと素直に思った。30になった頃、50代のおばさまが同じようなことを言っていると、50だなんてまだまだ先のこと、と思って聞いていた。 40代の頃、60代のおねえさまたちが「もう還暦よ。歳取ったものだわ」というのを聞いて、還暦とはすごい、労ってあげなくちゃ、などと殊勝に考えたりしていた。

還暦を迎えた友人たちも70を過ぎた親戚のおばさまたちも、何人か集まると、必ず、ほぼ必ず「もう私たちトシだから」という話になる。そしてその後、かならず笑う。自虐的に? いえ、愉快そうに。

もしかしたら彼女たちの多くは、自分が歳をとったなどとは本気で思ってはいないのではないか。あれは、ジョークにすぎないのかもしれない。予定調和の続きがあるジョーク。「あら、そんなことないわよ。あなた、まだ若いわよ。」・・・。

このことに気付いたのは、自分が50歳過ぎてからだ。 誕生日が来る度、からだのどこかが痛くなる度、風邪を引く度、友達と会うと、もうトシよねーと言う。言ってはみるものの、私たち、本気でそう思っているだろうか?

自分は本当はまだ若いのか。本当はトシなのか。そんな時思うのが、時間の危うさ、不確実さ、面白さについてである。

高校時代の友人と会って話していると、時は17歳の頃に逆戻りする。しかし話題は腰痛体操と五十肩はそのうち治るから心配しなくていい、みたいな話だ。仕事をし始めた頃お世話になった当時の上司と久しぶりに会って話していると、時は20代に逆戻りする。しかし話題は親の介護と飲んでいるいるサプリの話だ。複数の時間がダリの絵のようにゆがんで一つの体の中に共存している。高校生の自分は、新米社会人の自分は、自らに問う。「60歳の自分は、もしかしたら仮の姿?」。けれど、腰の痛みや文字の霞む目に気弱になってはいる。そこで冗談めかして言ってみる。「もうトシだから・・・」。他者は言う「そんなことないわよ」。やっぱりそうよね? 一件落着である。

動かないようでいて時は流れているというのに。

時計が好きで、いくつか集めている。

まだまだ若いと思ったりもうこんな歳だと気弱になったりしながら過ぎていく毎日。時間の流れは一定でないように思えることがあるが、一方時計の中で時は静かに前を向いている。どんなときも流れる時間を数字に置き換えて律儀に規則正しく時を刻み続け、進めていく。ゼンマイを巻くのを忘れて止まっている時計でも、その文字盤の中に確かに時間は生きている感じがする。時間とは、どのような存在なのか?そんなことを考えながら時計を眺めていると、厭きない。

古い時計、新しい時計。手巻きの機械式時計、デジタル時計、電波時計。形も作られた年代もいろいろだ。時計を見ていると、ひとりの人間の中の時間の流れも、時代を経て現在へとやってきた時間の川の流れの中に注ぎ込まれていく小さな細い支流のように感じることがある。

私は手巻き時計が好きだが、中でもアンティークの時計は、現在の時と古(いにしえ)の時を同時に刻んでいるようで愛おしい。

1920年代に作られたナースウォッチ。(時計部分直径2㎝)
衣服にピンでとめて使用。手に取って見やすいように、文字盤が上下逆さまになっている。
1882年 懐中時計。

20年前、迷いに迷った末に手に入れた懐中時計がある。1880年代に作られた英国製のもの。銀の細工が細やかな裏蓋と文字盤が美しい。一日に2回は巻かなければならないし、よく遅れるし、よく止まる。遅れたり止まったりするのは、ケースの中で嘗て刻んでいた「時」のどれかを時計自体が懐かしんでいるからだろうと解釈している。

ところで。

俺も、もう68だよ、歳には勝てないよ、最近夜は出掛けないよ、などと言っている男性もいらっしゃるけれど、同じセリフでも男性が言うと、冗談に聞こえないのはなぜでしょう。

投稿者:はなまき

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