大晦日と元日は、いつもの昨日と今日にすぎないのに、空気が新しく清々しく思われるのは何故か。大気中の空気が真夜中12時にがらっと入れ替わるわけがないが、それはおめでとうと交わす言葉に含まれる一種の刷り込みのようなものなのだろう。そんなことわかっていながら、年が改まると気分一新、“新しい空気の中で”やりたくなることがある。 その一つが、着物で出掛けること。
着物を着ることが楽しくなったのは30代に入ってからだ。 娘時代はお茶の稽古に着物を「着せられて」通っていた。着物そのものは嫌いではなかったが、さて自分が着るとなると、なかなかその気にはならない。あの手触り、意匠を凝らした刺繍や染め柄、そして帯。美しくて素敵だけれど、身体を締め付ける紐の多さ、苦しい帯、着たり脱いだりに時間がかかること、汚しちゃいけないこと、手入れが大変。――様々なものが私を着物から遠ざける。草履の鼻緒はすぐ痛くなるし。
変わったのは、息子の七五三の時である。お宮参りに久しぶりに着物でも着てみようかな・・・と、ふとその気になった。嫁入り道具で持ってきたものを、いつまでも箪笥の肥やしのままというのももったいない。
当日は晴れて暖かく、半ズボンスーツ姿の息子は凛々しく見えた。帯に締められて苦しいはずの私の身体はといえば、背筋が伸びる感じがして決して不快ではない。祝う気持ちが面倒くささに勝ったのかもしれない。あの、夜泣きしていた子が5年を経て今は立派に毎日幼稚園に通っているなんて! 夜泣きしてる子を寝かせられなくて一緒に泣いてたこの私が立派に幼稚園児の母をやっているなんて! 着物のおかげで、喜びが増したような気がした。
30年も前、夫の転勤で過ごした秋田でのことである。ちょうどその頃住んでいたマンションに着付けの免状を持っている方がいて、着付けを教えてくれるという。 週に一度、着物襦袢帯足袋紐一切を抱えて2フロア階段を下りて、習いに通った。親のお古の木綿や紬の着物を下手なりに着てどんどん出掛けて、慣れるようにした。幼稚園のお母さん友達に着物好きがいて情報交換でき、これも心強かった。
どんなことも、ひょんなきっかけで動き出す。そしてその下には、幾つもの要素がちょっとずつ重なって、出番を待っているような気がする。
普段から着物をすっきりと着こなしていて格好よかった伯母の存在。絹・木綿・麻など自然素材の着心地が好きで、小物(着物の場合は帯締めや帯揚げ根付等)の取り合わせを考えるのも好き。職人と呼ばれる人たちの作り上げる世界にあこがれていること。・・・どれも着物にまつわることで、しかも身近にある。幸田文の小説をよく読んでいたことも影響しているかもしれない。きっかけは、積み重なっているものに出口をつくる。
秋田には6年間暮らし、その後関東に戻ってきた。着物の着方は昔に比べ、多少ましになったような気もするが、着物巧者の多い鎌倉では、今でも尚、着物で歩くことに気後れすることがある。この街に住んで20年以上経つというのに。
でもめげずに、今年も先ず一月のうちにどこかへ着物で出掛けようと思っている。
半襟の白い、きゅっと背筋の伸びる、長襦袢を羽織ったときのヒヤッとする、和箪笥の匂いと絹の匂いが混ざった空気を纏う、あの感じは、新年の“新しい空気”にとても似つかわしい。 襟袷せが少しずれているのにだましだまし着付けを始めると、結局は初めからやり直さないと決してきれいには着られないという不思議。これも「ごまかしは結局帳尻が合わない」ことの証明のようで、年の初めに自分を戒めるのに良いような気がする。
着物を着るのは楽しい。 楽しいことから始まる一年には、きっと楽しいことが多いだろう。今年も畳紙(たとうし)を広げる。
投稿者:はなまき
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